土星茶会客人
土星茶会客人のサビーニャ(まだらマット)2025
陶(セラミック)
2025
w 5cm × d 5cm × h 11cm
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土星茶会譚 ― 氷輪の庭でひらく一服
宇宙の暗黒に浮かぶ、ひときわ気高い黄金の輪。
土星の環は、無数の氷粒と微細な岩石が織りなす光の帯であり、
太陽光を受けて青白く、時に金色に輝く“天の庭園”である。
その日、宇宙を旅する客人は、
静かにその庭へと降り立った。
足元には氷の粒が雪のように舞い、
遠くでは環の粒子がぶつかり合う微かな響きが、
琴のような、波紋のような音色を生み出していた。
客人は氷の花びらを踏まぬように、慎ましく歩み、
環の上に小さな茶会の場を整える。
土星の重力は軽やかで、
茶器を置くと、かすかに浮くような手触りがあった。
湯を注ぐと、蒸気はゆっくりと環の風に乗り、
氷粒の光を吸い込んで、青い霧となって漂った。
茶の香りは冷たく澄んで、
まるで雪解け直後の山の空気のような透明さを持っていた。
やがて、土星本体の縞模様から、
かすかな光が環へと降り注いだ。
その光は柱のように伸び、
茶会の場を淡い金色に染めていく。
氷粒が光を受けてきらめき、
客人の周りに小さな星々が舞い踊る。
すると、遠方から低く響く音が届いた。
それは土星の磁気嵐が奏でる、大気と粒子の共鳴——
宇宙の奥底から響く“惑星の合唱”。
その音は言葉ではなく、
しかし心の奥深くに直接届く旋律であった。
客人はその音に耳を傾けながら、
ゆっくりと茶碗を手に取った。
茶の表面には土星の環が映り込み、
無数の光のリングが揺らぎながら広がる。
それを一口含むと、
味は静謐で冷たく、しかしどこか芳醇で、
宇宙の時間そのものを味わっているようであった。
茶会が終わる頃、
環の粒子が風のようにざわめき、
小さく優しい輪を描いた。
それは土星の庭が茶会を惜しむような、
また、旅人を送り出すための静かな合図でもあった。
客人は深く一礼し、
背後で氷粒たちが星の雨のように舞い上がる中、
ゆっくりと宇宙の暗い海へと歩み出した。
こうして土星の氷輪で開かれた一夜の茶会は、
いまも環のどこかで淡く光り、
訪れる者を静かに待っているという。
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作品のコンセプト
日本のうつわには、人の身体の名称が用いられることがあります。たとえば、器の縁は「口」、中央のふくらみは「胴」、くびれた部分は「腰」、底部は「足」や「高台」と呼ばれています。こうした呼び名は、器をただの道具ではなく、ひとつの“身体”としてとらえる日本独自の感性を反映しているように思います。
私は、こうした器の呼び方に出会ったとき、すぐに「この器は生きている」と感じました。手のひらに乗せたときの重さや、形のバランス、口の開き具合までもが、まるでその器の“性格”のように思えてくる。だから器に料理を盛りつけるときも、私はどこかでその器の気持ちに耳を傾けているのかもしれません。
室町時代に描かれた絵巻『付喪神記』には、長年使われた道具たちが妖怪となって現れ、夜の町を行進する様子がユーモラスに描かれています。鍋や釜、木魚、鰐口といった日用品が、命を得たように踊り出すその光景に、私は初めて見たときから心を奪われました。そこに描かれていたのは、日本人が昔から抱いてきた「モノには魂が宿る」というまなざしそのものだと思います。
日本には「八百万の神」という考え方があります。自然のすべてに神が宿るように、日々使う器や道具にも、心があると私は感じています。たとえ器の一部が欠けてしまっても、金継ぎを施すことでさらに魅力を増し、新たな物語を持つようになる。私は、それがまるで子どもを育てるような行為だと思っています。
こうした“モノとの関係”のなかで、私は作品をつくっています。器をモチーフにしたキャラクター「ワビーニョ」「サビーニャ」たちは、器と向き合い、対話するように生まれてきました。命を感じるモノたちと暮らす楽しさを、私はこれからも作品の中で育てていきたいと思っています。
ワクイアキラ